益田七尾まつり益田公武者行列

益田七尾まつり武者行列

益田七尾まつりの益田公武者行列は約900年前より400年間益田地方(石見)を治めていた、益田氏の初代「兼高公」と12代「兼堯」の進軍を再現したものです。

総勢50数名が武者姿で行進します。

兼高公役と兼堯公役は鎧兜を身に着け、乗馬で行進いたします。

益田七尾まつり武者行列

益田七尾まつりの「益田公武者行列」は、七尾まつりの出し物として平成6年より毎年行われる時代行列です。中世鎌倉時代から戦国・桃山時代まで、益田をはじめとする石見地方を支配した居た益田氏の初代益田兼高公の鎌倉時代行列と十二代兼堯(ますだ かねたか)公の室町時代行列があり、それぞれ二十数名づつ総勢五十名の行列です。

益田公武者行列鎧武者隊 

益田公武者行列

益田公武者行列

時代行列には、住民五十名が騎馬姿の益田家当主や装束姿の家来にふんし、勇壮な時代絵巻を披露。益田天満宮の菅原道真公の九州流しを再現した大小行司行列では、両行司が厳かに練り歩いた。

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益田公武者行列鎧武者隊新参

益田公鎧武者隊昨年より、安来市広瀬町の尼子を興す会より習い、制作を始めた手づくり鎧かぶと7領を益田公鎧武者隊として初披露致しました。

益田七尾まつりの益田公武者行列鎧武者隊は約900年前より400年間益田地方(石見)を治めていた、益田氏の歴代当主の鎧姿を模した手づくり鎧かぶとの武者隊です。

今回は総勢7名が鎧武者姿で行進・披露致しました。

将来は益田初代より20代まで17領(鎧は領の単位で数えます)を手づくりにて制作する予定です。

小行司

小行司

大小行司は菅原道真(すがはらみちざね)公を尊敬する人々の念願から起こった行事です。
道真公を警護(けいご)した主役二名が大行司・小行司です。

レディースみこし

益田七尾まつりの花、レディース神輿です。市内の高校生と社会人の若い女性が少し小ぶりの神輿を担ぎ、益田七尾まつり行列に参加して愛嬌を振りまきます。

今年も(平成24年度)もグラントワにて演技いたします。

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益田天満宮では明治16年に防府天満宮の行事を移入して始まり120年続いている。
大小行司の行列には、やっこ・先乗・大行司・小行司等が練り歩いた。


 菅原公が筑紫への配流の途次、防府宮市に宿泊した時、政敵藤原時平の内命を受けた刺客が彼の身辺に肉迫した時、従者の告によって悟った菅原公は未明に寝所から起き上がり大宰府へ向かって逸走した。
 その際、菅原公の警護役は狼狽の余り、竿に掛けたままの装束を咄嗟に着て御伴したという伝説に基づいたもので、大小行司は菅原公往昔の遭難説を追懐するため防府宮市の地区民によって後世執行するに至った地方行事であった。
 この行事中には参勤交代当時の大名行列を多分に加味して居ることから、江戸時代以降に始まったものらしい。

大小行司の行列には、やっこ・先乗・大行司・先乗・小行司の順で神幸行列の前を練ることになっている。やっこの手には往借の大名行列そのままの鳥毛・笠槍・長持・挟箱・弓矢・太刀・草履等を携えて並び、それに伴う唄として宿入りを歌う習慣を持っている。

益田天満宮における初代の大行司を勤めたものは、大行司を防府宮市から移入したと言われている益田島田家の先々代島田弥三郎であった。二代から四代までは遠田出身の者であった。

益田天満宮はだか神輿映像 

防府天満宮御神幸祭(裸坊祭) ほうふてんまんぐうごじんこうさい(はだかぼうまつり)を移入して行われている御神幸祭。半パンツにさらし姿の若集が神輿車を引き地区内を練り歩く。

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